信長公記 (下) (原本現代訳 20)

信長公記 (下) (原本現代訳 20)

信長公が身罷られました。光秀が謀反した理由の1つとして挙げられる家康への饗応の不手際については以下のように反対のことが書いてありました。出典は何処からなんだろう?

五月十五日、家康公は番場を立ち、安土に参着された。「お宿は大宝坊がよかろう」との信長公の仰せがあり、接待役を惟任日向守に命じられた。日向守は京都・堺において珍物をととのえ、たいへんすばらしいおもてなしをいたした。それは十五日から十七日まで三日にわたったことである。

あと興味深い記述。

餓鬼のようにやせ衰えた男女が城の柵際までにじり寄り、飢えにもだえて耐え切れず、「ここから引き出してお助けください」と叫び、わめく声の哀れなありさまは目をそむけずにはいられない。こちらから鉄砲で撃ち倒すと、息も絶えだえのその者の所へ、人びとが集まり、刃物を手に手に持って、手足の関節を離し、肉を取る。体の中でもとりわけ頭部はおいしいらしく、首をあちらこちらと奪い合い、逃げ回っている。とにもかくにも命ほど情けないものはない。

頭部がおいしいらしいです。